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ららら安楽の子

小説や映画などの感想ブログです。

創造はなぜだか儚く、想像はなぜだか切ない――『コングレス未来学会議』

こんにちは。

先日の話ですが、祖母から母伝てにもらった鑑賞券でダリ展に行ってきて、文化的な気持ちになったのでそのままミニシアターで映画を見てきました。

アリ・フォルマン監督作品『コングレス未来学会議』です。

 


【映画 予告編】コングレス未来学会議

 

 

とりあえずあらすじを紹介したいんですが、逐一細かく説明しているとながたらしくて嫌になってしまかもなので、ざっといきます。

作中のロビンは落ち目の女優です。そんな彼女に「最後のオファー」と称して、ある契約が持ち掛けられます。それは「きみ(ロビン)を『スキャン』して、今後はそれを基につくった『ロビン』というCGを使って映画に出演させる」というもの。わがままで奔放なロビンはいらなくて、肝心なのはロビンの演技それだけだ、ということのようです。それさえあれば人々は喜ぶと。で、なんやかんやあるんですが、ロビンは嫌々ながらそれを引き受けます。主だった理由はおそらく息子の持っている耳(目も?)の病気。ロビンは四方八方をカメラで囲まれた部屋でスキャンを受け、場面は暗転。唐突に20年後のシーンに変わります。

20年後の世界で60代になったロビンはアブラハマシティという場所に向かいます。スタジオとの契約更新のため、スタジオから招待を受けたのです。

で、そのアブラハマシティというのが、「アニメ専用地域」なわけです。なので、ロビンはアブラハマに入る前のゲートで門番的な人に薬を渡され、それを飲み、アニメになりました。「アニメ専用地域」だからね。

つまりそこから本編はアニメーションに切り替わるのですが、このアニメというのが結構サイケで、幻想的っていうよりはトリップですね。まあ、実際それは幻覚の世界でした。デザインもなんか統率感があるようでなく、ちょっと手塚治虫っぽいやつとかもいれば、ポパイっぽい世界観のもいたりして、この辺の感想は見る人によって違うんだろうけど、おれはそのとき映画館でほぼ貸し切り状態のなかでたった一人たまたま同席してたおばあちゃんの心境を鑑みたい気持ちになりました。

どうもその薬を飲めば、人は「自分の思う通りの姿になれる」みたいです。アブラハマシティ内における人間は全員が自分の理想の姿で暮らしていて、それがアニメーションという形で表現されているんだと思います。なんていうかこれは表現一般の話なんだけど、実写は性質上意図しないものが映り込んでしまうというケースがあるのに対して、アニメーションは描かないとそこに現れてこないので、「意図しないもの」ってその世界に出現しないんですよね。そういう種類の理想郷が、幻覚によって成立した街が、アブラハマシティ。なのかな。たぶん。もうちょっと込み入った設定が練られている風でしたが、これ以上の理解は身体が拒みます。

ともあれその世界でロビンは新たな契約を交わすことになります。「ロビン・ライトという女優はかつて生身の女性であり、今はCGである。そしてこれからは、ロビンという『薬』になるのだ!」スタジオの言い分はそんな感じ。「薬を飲むことによって個人の世界に現前化するロビンがその人の思うように動けば、こちらが脚本を考える必要なんてないじゃん。っていうか、そうであれば映画とかもう古い!だっさ!わらうわ」みたいなそんな感じ。その思想にロビンが反旗を翻すところから逃走劇的に話は転がって、幻覚の世界で家族や愛する人などを探します。みたいな話です。でした。

というわけで、作中では「幻覚」と「現実」で二分された世界が構築されていて、あの「幻覚から覚めたと思ったらその世界も幻覚だった」という地獄のパターン構成もあってめちゃくちゃわかりにくい。へんてこちっくな疲れる映画です。

 

アニメという運営者/描き手によって創造された世界では、人々の意思の一つで理想を生んで絶望を上塗りすることができます。

この映画、おもしろいんだかおもしろくないんだか言いにくいし、だから大手を振っておすすめはできない、ていうか「そういえばこの間こんないい映画を見たよ」みたいにカジュアルに話を振れる映画ではあまりないんだけど、なにかものを描いたり、作ったりしてる人にはなんとなく見てほしい気がしてます。ただ理想を配置するというような創造をすることを、まして想像をするだけのようなことを、表現とは呼べない、みたいな気持ちがこの映画観てるとわいてきます。いや、わいてこないこともそりゃあるでしょうけど。だってこの映画の実写の画に対するアニメーションパートは本当に軽くて、いつも巨大な虚無感が横たわっているのだもの。そこにいる人々は自由に姿を変えられるし、物語も自由に紡ぐことができる。だからそれゆえに、その世界にはどこにも文脈がない。

過程が大事なんだから結果の如何は大した問題じゃない、みたいな感性はおれは嫌いですが、他者との関わりにおいては、文脈をつくることだけがコミュニケーションだと思うんですよ。それぞれのあらゆる文脈の受け渡しが関係するということだし、それを便宜上ビジネスパートナーとか友達とかって呼ぶことはあるにせよ、基本的に結論には達しない。『コングレス未来学会議』みたいに個々人で理想の結果を瞬時に叩き出せる世界は無力だよ。腑抜けだよ。

アニメの世界でも老齢の姿を変えることなく過ごし続けるロビンの姿だけが「表現」で、それは、観客に伝わるんじゃないでしょうか。

まあ、そもそも表現することの必要性を撤廃した世界があれなんだろうけど。だからあれはまあユートピアだし、見方によっちゃ最高だし、おれも場合によってはそういう世界に酔いしれたくもなるだろうけど。だけど。

この「だけど」の気持ちが、すごく人間だね、ということにしておいてくれませんか?

ばいばい。

 
余談

おれは存じ上げなかったのですが、この「ロビン・ライト」というのは実在していて、本人役での主演なんですね。『プリンセス・ブライト・ストーリー』でデビューして、世間的には『フォレスト・ガンプ』 のヒロイン役、というのが最も広く知られているようです。かなり有名な女優で、かつ、二人の子供を持つ、シングルマザー。この設定がそのまま本編の主人公に持ち込まれています。

本人役というと『マルコビッチの穴』を思い出すのですが、あれは、さえない人形師がマルコビッチを乗っ取ってそのあらかじめ築かれた名声を土台に人形師としての承認を得まくる話でした。役者というのは常に大衆の欲望の対象で、食い物にされがちのようです。