ららら安楽の子

小説や映画などの感想ブログです。

最低の過去でも、最高の音が鳴れば良い。――滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』

 

思い出される過去を、今という時間でなく、過去の時間のままに思い出すことはどうしてできないものか。(本文62p)

 過去は過去にしか存在していない。思い出す過去は過去然としているだけで実態はどうしようもなく今という時間に張り付いている。だからそれは過去そのものでは決してない。

 

 僕は結構そういうことに歯痒い思いをすることがあります。今たとえば高校生のころを思い出して、「あの頃おれはとにかく若くて、中学のときになにも成さなかったことを後悔しててなんかもうすべてやってやるって気持ちで入学して、とにかく頑張ってたんだよ生徒会なんかにも入ってそれがどういう意味かなんてのもわからないままちょっと恋をしてみたり、目立ちたいわけじゃなかったけどスクールカーストの下にいるのは嫌で、それも中学の暗い過去があるからで、でも結局だめでおれは高校でも下のほうだったしなんだったら一年のころは本当にクラスの男子のなかでほぼ唯一溶け込めなかったような人間だったけど、まあ良い悪しは置いといて、楽しかったんだよ結局は」ってなんだかんだと言えるわけだけど、その時の出来事と背景、感情、意見は常に今の時点から回想されるそれらとはなにかが違っている。いや、違っていたはずだ、と、思わないではいられないじゃないですか。だっておれはこんなに冷静なまま、なんだったらちょっと苦笑いなんかもしちゃいながらあの瞬間を生きたわけじゃないんだよ。あの日々はどこにいったんだよ。

 

 というわけで、滝口悠生ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』を読みました。

 ギターとバイクと失恋の青春小説。たしか三十代後半ぐらいの時点から大学生活を回想するって話なんですけど、この回想ってところが肝になってる小説です。

 そんなに長い小説じゃないのであらすじは省くとして、僕としてはこの小説、意外とずっと憶えてるんだろうなって思える話でした。っていうか最近考えていることとかなりリンクしていてちょっと偶然にしてはできすぎているなと。まあこの小説を読むに至る導線はあらかじめ周囲の人に引いてもらっていたんですが。ともあれ。

 語り手の「私」の回想する過去はまさに↑で言ったような現実的な回想によってなされていて、だから作中では「過去の『私』はこうであった」というような描写に対して「でもそれは現在の『私』がこうだから、そうであったと思っているだけなのかもしれない」というような補足がともなう文章が多く書かれている。ここで語られている「私」の過去は、ただの過去ではないんですね。まず舞台としての「過去」があり、役者として過去時点の「私」がいて、現在時点の「私」が舞台をセッティングする黒子の役割を果たしている(あるいは黒幕といってもいいかもしれない)。そして観客も、現在時点での「私」である。そんなような少し自作自演めいた空間をイメージすることができます。

 こうした種類の過去を僕自身は「ねつ造された過去」と思っていて、あまり良いものではないような気がしてた(純粋な過去が取り戻せないことの悔しさが強かった)のだけど、この小説はそのどうしようもなく捉えがたい過去に肯定的なんですよ。

左利きのジミ・ヘンドリクスは、右利き用のギターの弦を逆さに張り替えて弾いた。上下逆さまに抱えられたギターは、本来いちばん細い弦が張られるべきところにいちばん太い弦が張られ、いちばん太い弦が張られるところにいちばん細い弦が張られた。振動を拾うピックアップも、本来の弦の並びに合わせて配置されているから、その指向性も設計時の想定から大きく狂うことになる。さらに、ジミ・ヘンドリクスは弦のテンションを操作するアームを極端に激しく動かし、音を変化させた。そのため彼のギターはすぐにチューニングが狂った。ギターをアンプに近づけたり、ギター自体を揺らしたりすることで、アンプから発せられた音にギターが共振して起こるフィードバックノイズを起こし、それを演奏に取り入れた。(本文29p)

ジミ・ヘンドリクスがあらゆる方法で、時には破壊して(!)、演奏してきたギターが唯一無二の音を奏でていたように、過去というギターで、弾く。すると、本来出るはずもないような、聞いたこともない音色を出現させることができるのかもしれない、ということですよ。作中で主人公が憧れるジミヘンのギターはきっとそういうこと。そうした試みは、なにかを思い出すとか、取り戻すとかいったことよりも前進的な気がするし、作中で語られるような失恋を思い出すのも悪くないような感じがします。

 僕は洋楽には明るくないしギターも身につくまえにやめちゃった人なんでジミヘンとかのくだりは詳しい人ならもっと親近感湧くんだろうと思います。

 

 今を生きるということが一種のライブであるんなら、「回想する」という行為もまたもれなくライブなのであり、それがまた、「体験」として自分のなかに残っていく。若気の至りが極まったようなくそみたいな過去も、未だに拭えないトラウマも、現在の僕がうまくフィードバックすれば、結構良い音が鳴ったりするものなのかもしれない。自分の人生の最高のプレーヤーであろうぜ。

 

とりあえず熱量の続くまま書き連ねてみましたが、そんな感じで。また追記するかも。

それでは明日からも暮らしていきましょう。

ばいばい。